夢見るペンギン

 ペンギンの子供がある日考えた。空に浮かんでいる白いものは何だろう。
 母親の暖かい股の間からいつも見上げていた。どこから来て、どこに流れていくのだろう。そんなことはもちろんわか
らなかったので、一心に首を持ち上げて空を仰ぐ彼に、母親のペンギンはいつも優しくキスをした。


 彼は学校へ入っても、大人になっても同じことを思った。皆が、より速く泳ぐ方法を夜更けまで語り合っているときも、授業でクジラの親子を観察に行った時も、彼は空のことばかりにふけっていた。付き合っていた女の子にも打ち明けなかったけれど、早く泳ぐ方法なんて必要ないと思っていたのだ。海には魚はたくさんいたから、泳ぐのが遅いペンギンは、泳ぐのが遅い魚を取ればいいと、それだけの問題だと思っていた。クジラの親子には少し感動したけれど、同時にただの大きな魚だ。
どちらにしろ、海の中にあるものに彼は興味がないのだ。

 彼は学校を出ると新聞社で働き始めた。そこでの仕事は刺激的で、次々と新しいことを経験できた。生まれてから初めてやりがいのある面白いものに出会えた気分になった。仕事に没頭するうちに、付き合っていた女の子にもこっぴどく振られたが気にならなかった。
 そんな日々の中で、頭上を流れている白いふわふわのことを考えるのは暇な時だけに減っていた。それでも、完全に忘れるということはなく、今でも彼は毎日の空き時間に空を見上げている。自分たちが海の中を飛び回るのと同じように、空にも逆さまに水があって、逆さまの仲間たちが泳いでいるように思えてならなかった。
 
 そのころ、世間ではもっぱら温暖化についての議論が交わされていた。ペンギン達は自分たちの生活が徐々に、しかし確かに変わっていることを敏感に察知していた。彼らの住める世界がどんどん狭くなっていることはすでに肌で感じられるほどになっていたし、解決方法など誰にも分らないのだ。もちろん、どうしてこのような事態になっているのか、わかるペンギンはいない。
 記者のペンギン達は毎日のように海に潜り、自分たちの住んでいる大陸の周りを調査していた。毎日同じルートを巡っていると、それが少しずつ、削り取られるように狭くなっていることがわかった。とても不思議だったが、やはり彼らには原因はわからなかった。
 泳ぎがとても遅かった彼は、比較的近場の調査を一人で担当していた。複雑な入り江の状況を少しずつ調査していたのだ。ほかの記者たちはすでに遠洋や大陸の裏側を調査している。彼の作る記事は魅力的だったが、泳ぐことが苦手というのが取材能力に大きくかかわってくるということに彼は大人になってから気づいた。
 
 しかし、この少々屈辱的な調査のおかげで、彼は彼女と出会うことができた。
 彼女は料理家で、料理に使う魚を取っているところに、取材中の彼が出くわしたのだ。遠くから一目見ただけで彼女の泳ぐ技術が素晴らしいことはわかった。彼は少し離れたところでそれを見ていたが、彼女はそれを横目で確認しながらも狩りを続けていた。
「すごいな、こんなところまで魚を捕りに来るのかい?」
 数匹の魚を捕らえた彼女が陸に上がるのを見計らい、彼は声をかけた。
「最近はね、このあたりで珍しい魚が取れるのよ」
 彼女は少し誇らしげに微笑んで答えた。その笑顔に彼はやられた。
「きっと温暖化の影響だ。暖かくなってきたから、今までは姿を隠していた魚が現れたんだ」
「あら、あなた賢いのね」
「僕は記者なんだ」
 彼も彼女を真似て胸を張った。
「あなた程度の泳ぎでも記者になれるのね」
 彼女はいたずらっぽく笑った。
 彼はとても魅力的な彼女を夕食に誘い、丸い岩の上で自身の料理を振舞った。彼の料理は少し変わっていた。魚だけではなく、貝やエビ、海藻なども使っていたのだ。
「こんな面白いもの、初めて食べたわ。よく思いついたものね」
 最初は躊躇していた彼女も、食べ進めるにつれて感心し彼を褒めた。
「あなた、少し変わってる」
「みんなそう思ってるさ」
 彼と彼女は目を閉じてお互いのくちばしと額をそっと合わせた。
 
 それから1年ほど経った。
 彼らの住処はさらに狭くなり、当初珍しかった魚が、今ではいたるところで見られるようになっていた。原因のわからないこれらのことは、ペンギン達をとても混乱させていた。
「このまま狭くなって、いよいよ私たちの居場所がなくなったらどうなってしまうの。魚のように暮らすのかしら」
 ある晩彼女が彼に言った。
「さあね、誰にもわからないさ」
「私は料理家だから、料理ができなければ困ってしまうわ」
「僕たち特別調査チームを結成してさ、毎日毎日原因を探しているよ」
「きっとあなたはそのチームではないのでしょう」
 彼女は彼を見た。
「でも僕も調査は続けているよ」
  彼が言うと彼女は少しだけ心配そうに、
「危ないことはないのでしょうね」
 と言った。
「僕は大丈夫さ」
 それから二人は一緒に赤い魚のスープを飲んだ。彼女の作ったそれは、とても不思議な味に思えたけれど、彼は幸せだった。
 
 水面を跳ねるように泳いで、彼はいつものように岸沿いを泳いでいた。特別チームは今や岸から遠く離れた大洋へ遠征調査へ向かっていたのだ。残された彼は相変わらず毎日同じルートを回っている。岸は日に日に削られていたし、今や水の中には緑鮮やかな草が生え始めていた。
 この流れがもう誰にも止めることが出来ないだろうということに、彼は気付いていた。彼だけではなく、少なくない数のペンギンたちがそう思っていた。誰も表立っては口にしないが、皆不安な気持ちを抱えていた。
 
 調査の途中、彼は海面に仰向けに浮かび、空を見上げて流れ行く白いふわふわしたものを目で追っていた。その柔らかなものが何なのか、それは今この世界に起こっていることと同じくらい彼には不思議なことだった。そして、同じくらい、大した問題ではなかった。彼は海が暖かくなっていることも、大陸が少しずつ削れていることも、興味深いとは思っていたが、不安ではなかった。
 ちょっとした時間浮かんでから、彼は自分がだいぶ沖へ流されていることに気がついた。岸を見ると、自分たちの住んでいる大陸がとても小さく見える。そして、反対側を振り返ったとき、そこには彼が今まで目にしたことのない巨大なものが浮かんでいるのを目にした。岸と同じくらい離れた海面に、まっ黒な塊が浮いているのだ。不気味に浮かぶ塊は、少しずつ彼の方へ向かって進んでいるように見えた。
 彼が知る限り、ここで一番大きなものはクジラだったが、それはクジラではないようだった。彼はそれに向かって泳ぎ始めた。危険だと思ったが、好奇心の方が強かった。近づけば近づくほど、それがはるかに巨大なものだということがわかった。クジラどころではない。そしてやはり相手も彼の方向へ進んでいるようだった。とてもゆっくり、しかし揺るがない意志を持った様子で向かってくる。
 もうそれは目と鼻の先まで迫っている。彼は進路を変え、その大きな物体の横側に滑るように近寄った。
 近くでそれを見上げたが、その巨大なものは、空を半分以上隠していた。彼はふいに、いつか母親の下で見上げた空を思い出した。見上げるといつも母親が首をかしげて空を隠して彼にキスをしたのだ。
 彼はそっとそれに触れてみた。その瞬間、手のひらに燃えるような熱が伝わり、彼は反射的に腕を離した。ザラザラした感触のそれは、ものすごい熱を持っていたのだ。
 彼は海に潜り、そのまま大陸へ向かった。岸へ着いて振り返ると、巨大な黒い塊は方向を変えてこちらから遠ざかっているようだった。
 
「今日、すごいものを見たんだ」
 夕食時、彼は彼女に言った。
「沖ですごいものを見た。クジラよりも何倍も大きくて、まっ黒で、今まで感じたことのないものを持っていた。すごすぎて、触れなかったんだ」
 彼女は面白そうに話す彼と対照的に、少し怖そうに話を聞いている。
「じきに調査チームもあいつを見つけるだろうね。だけど、どうもできないよ。あれのせいで僕たちの場所が削られているのなら、僕たちにはどうすることもできない」
 彼は首を振ってそう言った。
「わたし、怖い」
 彼はそっと彼女の肩を抱いた。
 
 彼の言ったことは当たっていて、それからしばらくして調査チームが別の場所でそれを見つけた。彼らはそれを大クジラ岩と名付けて調査していたが何もわからなかった。何しろ彼らはそれに触れないのだ。それに加えて、大クジラ岩は夜が更けるとにはすごいスピードで沖へ戻っていった。いかに調査チームが優秀でも、それを追って沖へ出ることは危険だった。
 彼らの住んでいる場所はさらに狭くなり、大人達は子供を海へ入れないようになった。皆、大クジラ岩を恐れていた。
 
 彼と彼女は二人で岸に腰かけ、水平線を眺めていた。遠くに大クジラ岩が見えた。空はとても澄んでいる。その光景は今彼らが抱えている現状とは裏腹に、のどかで平和的だ。
「僕は昔から、空を見るのが好きなんだ」
 彼が言った。
「空を横切る白いふわふわが何なのか、いつも不思議に思っていて、だからいつもそんなことばかり考えていた」
 「わかるわ 」
 彼女は優しく笑って、さらに付け加えた。
「あなた、そんな感じよ」
「それで、いまもそんなことを考えているよ」
「何をすればいいのかなんて、誰にもわからないわ。この先どうなるのか、そんなことは誰にもわからないのだから」
「そうだね」
 彼は安心したように笑った。
 沖では相変わらず大クジラ岩がゆっくりと行き来していた。
 彼らはしばらく岸辺に座ってぼんやりとそれを眺めていた。
 
 
「空に行けたらいいのに」
 
 
 つぶやくように言った小さい彼女の言葉を聞いた時、彼は反射的に翼を広げて岸を蹴った。胸が熱くなるのを感じながら必死に羽ばたくと、彼の体はどんどんと空へ登っていった。自分が何をしているのか、彼にもわからなかったが、がむしゃらに腕を振った。
「待って!」
 背後で彼女の叫ぶ声がした気がした。彼は必死に羽ばたきながら、
「君も!」
 と叫んだ。振り返る余裕はなかった。
 空に浮かぶ白いものに向かってどんどん進んでいく。目の前には今までで一番大きな、見渡す限りの空が広がっている。
 振り返ると、彼女も飛び立った。必死に翼を羽ばたかせ彼を見つめながら、ついてくる。
「こういうことだったんだ!」
 彼が笑って叫んだ。
「こういうことだったんだよ」
 彼が子供のように笑って叫んでいるのを見て、彼女も笑った。
 
 彼らの下では大クジラ岩が彼らを見上げていた。
 彼と彼女は、もう空しか見ていない。
 
 
genki
 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA