隣のエスパー #1.鳥類図鑑

 鞠のように膨らんだ桜のつぼみが今にも弾けそうになり、いよいよ開花かというニュースがその町に流れた頃、花は二年務めていた出版社をクビになった。
「東京は刺激に満ち溢れていて、女の子はみんなキラキラしていて、毎日新しいビルが立って、アラサーの人は毎朝海外で買ってきたお洒落なマグカップでコーヒーを飲んでるものだと思っていました、豆からひいたやつです」
 酔いに任せて出し切った、嘔吐のような花の二年間の思い出話に、編集長をしている女は大きくうなずいた。
「そうかそうか。それで、実際はゴミとゲロと性欲に溢れていて、誰もが嫉妬と足の引っ張り合いを友情と呼び、古いビルではホームレスがうごめいていて、味もわからんガキ共が一杯千円のコーヒーに群がる東京には失望したというわけか」
「私はそんなにひどいこと言ってないですよ」
 花が抗議すると、先輩は「いかにも」と、多くの人が憎ったらしいと噂をする横流しの目で花を見た。長いまつげが瑞々しく光っている。
「あたしたちはそういった東京の嘘を包んで包んで、ひっくり返して叩いて伸ばして縮めて切り刻んで混ぜて売っているわけ。花、失望したか?」
「いいえしてません」
 花はテーブルに顔を伏せて答える。
「雑誌はすごいんですよ。夢を載せてるんです。切り刻んで混ぜるのは、夢を作っているんです。それができるトクチさんは凄いんです」
 言いながら、花はこのまま寝てしまおうかと思った。トクチさんが花の肩を軽くゆすった。花は「ううん」と声にならないうめき声を上げる。
「ちょっと前にな、上から編集部の人員を減らせと言われた。それで、正直に言うとあたしは全く迷わなかった。迷ってるふりとか、一度してみたけど、変わらなかった。話が出たと同時に花の顔が浮かんだ」
 花は動かない。
「他の部署の奴でもなく、二年間一緒にやってきた、お前に決めた。失望したか?」
 花は「いいえしてません」と、腕で抱え込んでいる首を振った。本当にこのまま寝てやろうか、と思う。
 トクチさんは「そうか」と酒を飲んだ。花は自分の髪の間からそれを眺めていた。金色に輝くアルコールがグラスの中で湖の底のように揺れている。
「トクチさんは、キラキラしてますよ。間違いなく。東京で上りつめる女ですよ」
「そうか」
 トクチさんは笑っていた。
「わたし、そういう予感当たるんですよ。小学校の頃から」
 花は重い頭を持ち上げて、自分も酒を飲んだ。喉を下っていく液体は冷たいのか熱いのか、もうわからない。
「それより花、多分、少ししたらまた花のことが必要になると私は思ってる。その時は絶対に声をかけるから、また一緒に働くことを考えていて欲しい。困っていたらいつでも連絡しなよ」
 困った状況に追い込んだ張本人のくせに、トクチさんはそんなことを言ってケロリとしている。

 

 
 それからふた月ほど、花はぼんやりと毎日を過ごした。朝は早く起きてコーヒーを飲み、毎日散歩をした。その春は例年以上に風の強い年で、桜はすぐに散ったが、暖かく、雨も少なかった。髪を切って、はやりの小説を読み、友人の家に食事をしに行ったりもした。どれも面白かったが、頭の中に鼠色の入道雲が詰まっているような、ぼんやりとした気分が続いた。
 そんな風に過ごしている中、ある日母親から連絡があった。隠すつもりもないので仕事を失ったことを告げると、「それで、いつ帰ってくるの」と意外にもあっさりした態度だったので少しだけ驚いた。
「半端な仕事に一生を捧げるより、いろいろなことをやって、いろいろなことに気付いたほうがいいものよ」
 生まれてから一度も働いたことのない母が電話の向こう口で胸を張っているのが目に浮かんだ。
 それから母が、トントンと引っ越しの日程を決め、花の部屋を引き払う手続きまで勝手に進めてしまったものだから、花は慌てて身の回りの整理をしなければならなくなった。昔から行動だけは早い母親だ。父親が年に2回も3回も海外に出張に行くので鍛えられたのだろうと思いながら、花は部屋じゅうの本を集めまわって、縛った。
 花の部屋にはたくさんの紙に溢れている。雑誌や写真集、図鑑など仕事で集めた本は山済みになったままだ。詳細鳥類図鑑という立派なハードカバーの本と、実家から持ってきていた花の写真アルバムだけは別にして、それ以外はすべて捨てた。図鑑は母にあげるためで、アルバムは母親との思い出話のためだ。二つを合わせるとそれなりの重さになったが、洋服と一緒に段ボールに詰め込んで、宅急便で送りだした。家具や家電などは、置く場所もないので全部捨てた。結局、送った荷物は大型の段ボール4箱だけで、自分の中身がそれっぽっちしかないように思えて、花は少しだけ泣いた。何もなくなった部屋に一人寝転んでいると、半分開けている窓から春の終わりのそよ風が迷い込んで、部屋は甘酸っぱい空色に染まっていくようだった。
 小さな明るい黄土色のトランクを引きずって玄関までいき、なんとなく気になって、もう一度部屋に戻って中を確認した。キッチンから順に回っていくと、すべて片付けたはずの押入れの隅に一枚の写真が裏返しで落ちていた。拾い上げて表を見ると、十歳そこそこの花が公園の広場でピースサインをして笑っていた。白とオレンジの幅の広いボーダーのシャツがいかにも田舎臭い。公園の後ろには小山が広がっていて、頂上付近の木々の茂みから、風景に似合わない薄ピンク色の先の尖った円柱のような物が頭を出している。ラグビーボールを少し細くしたようなそのオブジェがロケットに似ていることから、近所ではそこはロケット公園と呼ばれていた。
 花は写真をジーンズのポケットに入れ、閉め忘れていた窓を閉めて部屋を出た。部屋の中は急にしんと静まり、さっきまでの春の空気がそっと床に落ちた。
 
genki

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