ネイビーブルー

ネイビーブルー

 階下からは、相変わらず玉突きの乾いた音が聞こえてくる。今夜も客は数人だ。薄い板張りの床から確かに伝わってくる、時折の笑い声や、グラスのぶつかる音だ。
 窓から眺める細い月に向かって煙を吹きかけると、ちょっとしたおぼろ月になった。煙の粒子はすぐに広がって散り散りになる。煙だけじゃない。世の中のたいていの物は、いつの間にか、曖昧に輪郭を濁し、見えなくなってしまう。
 店が町から二時間ほど車を走らせた山の上に建っているからだろう、夜の空気はしんと冷えていて、薄いTシャツでは夏でも窓辺は少し肌寒い。一階はバーと玉突き場。二階は泊り客用の簡易寝室。一体誰がこんなところに通うのかと思ったが、以外にも客足は途絶えない。繁盛しているとは言えないが、変わった者好きたちが夜な夜な集まってくる。
 ここでの仕事に決められたルールはない。店主は老齢の男で、酒を出すだけを仕事としている。僕は適当に料理を作ったり、部屋の掃除をしたりするだけでいい。空き時間を見つけたはこうして窓から景色を眺めている。金はよくないが、夏の間の仕事としては、文句はない。
 視線を地に落とすと、遠くに町の光が見える。昼間は重なり合う山々が見事だが、今はすべてがネイビーブルーに塗りつぶされて、その町の灯と月が風景の主役だ。
 部屋の壁の古い時計が、もうすぐ深夜の二時になろうとしていることを示していた。
 僕は煙草を傍らの灰皿に押し付け、窓から身を乗り出して店の右側の駐車場を見た。白いカローラが停まっている。駐車する時に低く太い排気音を響かせていたので、それなりに改造されているのがわかる。今はおとなしく静まり、主人の帰りを待っている。犬みたいだな、ふとそんなことを思った。
 僕はというと、友人から安く買ったサニーに乗っている。良くも悪くも無改造なので、随分エンジンを回さないとこの店まで登っては来れない。あのカローラなら、アクセルを踏み込むたびに、体がシートに押さえつけられるような加速を感じることが出来るのだろう。クラッチもアクセルもきっと重く、一晩走らせるとクタクタになる。室内にはエンジンノイズと一緒に馬鹿みたいな排気音が響き渡り、微かにガスの匂いが鼻につく。それでもフロントガラス越しの道先だけに集中している間は何も気にならない。コーナーの手前で一気にギアを落とし、エンジンの唸り声とともに減速させてハンドルを切る。カーブを抜けるにつれてアクセルを踏み込むと余りあるトルクを誇るようにグンと加速していく。
 乗り出した体を部屋の中に戻し、三本目の煙草に火をつけた。もう一度時計を確認してから、耳を澄ませる。微かにだが、甲高い獣の声のような音が聞こえてきた。音は徐々に大きくなってきて、窓から見える峠道の麓に、黄色いヘッドランプの光が一点、灯った。光は木に隠れながらも、チラチラと瞬きながら峠道を進む。三速、二速、三速。抑揚のある排気音からライダーが高回転で走ることを楽しんでいることがわかる。百キログラムに近い車体を左右にひらひらと倒しながら進む世界は、普段の日常とは全くの別物だ。僕は目を閉じて息を大きく吸った。心臓が熱くなるのがわかる。
 五分ほどで、そのオートバイは僕の見る道の先に姿を現した。最終コーナーを抜ければ、そこからは緩やかな上り坂のストレートだ。店はその半ばにある。ライダーは、今まで抑えていた馬力を開放するかのように一気にスロットルを開け、シフトチャンジを繰り返しながら加速する。見晴らしの良い道だ。黄色いヘッドライトだけが点のように浮かんだが、あっという間に近づいてくる。しんと静まり返っていた山に大きな排気音がこだまする。オートバイが店の前を通り過ぎるのは一瞬だ。僕は息を止めてそれを見つめる。車体は暗闇でほとんど見えないが、ヘッドライトの光だけが彗星のように目の前を通り過ぎていった。こちらに襲いかかってくるような排気音を残して、オートバイは次のコーナーを曲がって見えなくなった。僕は三本目の煙草を灰皿に押し付けて窓辺から離れ、下へと続く階段へ向かった。

 店では二人の男が玉突きをしていた。
「今日も通ったな」
 降りてきた僕に、カウンターの中の店主が言った。
「この時だけは店が震えるよ」
「休憩終わりの合図には丁度いいですよ」
 僕の答えに店主はくしゃくしゃっと笑った。もとは劇団で役者をしていたらしいが、詳しくは知らない。安いウイスキーと宿泊代しか入らないのに、アルバイトに給料を払えるのだからうまくいっているのだろう。ずっと一人なのか、過去に家族がいたのかも知らない。知っているのは、彼がギターを弾くことと、二年前にこの店を始めたことだけだ。
「あの二人に何か作ってやってくれ」
 店主に言われて僕はキッチンに入った。
「僕も飲みますよ」
「構わんよ」
 店主はそっけなく答える。
 キッチンとは、バーカウンターの奥のスペースのことで、壁際に二台のカセットコンロが置いてある。小さな窓があり、天井には扇風機がぶら下がっている。
 グラスに氷とウイスキーを入れて、それを少し口に含み、冷蔵庫を開けた。サーモンがあったのでそれを取り出し、塩胡椒と小麦粉を振って、バターを引いたフライパンで炒める。扇風機を回すとバターの香りをたっぷりと含んだ煙は窓の外に流れ出ていく。
 じっくりと炒めたサーモンを皿に乗せ、レモンを絞り、作り置きの茹でたブロッコリーを添えて、玉突き台へ運んだ。
「外の、いい車だね」
 僕がサーモンを玉突き台のわきのテーブルに置いて言うと、二人の男は台から離れ、席についた。
「悪くないよ。店の脇のサニーはあんたの?」
 僕は頷く。
「あんたもいい車持ってるじゃない」
「どこもいじってないけどね、それが気に入っているんだ」
「それもありだよ」
「楽しんで」
 僕はそう言い、その場から離れた。
 カウンターに戻り、店主にも一皿渡すと、彼は小さなフォークで、ちびちびとそれを口に運んだ。
「お前はコックになれるよ」
「この程度でよければ、誰でもなれますよ」
 僕はそう答えた。

 ★

 昼間はほぼ毎日図書館に行く。町はずれの小さな丘の上に、木々に埋もれるようにひっそりと建っている。永遠とも思える休暇期間も、無気力ながらに何かしらのルーティーンを作らなければ駄目になってしまいそうで、特にやることもないのに足がここへ体を運ぶ。
 近くに県内の名水指定を受けている水源があり、いつもそこの水を水筒に汲んでから図書館に入る。
 館内は古臭いコンクリートと粉っぽい古紙の香りに満ちている。知識の匂いだと誰かが言ったが、多分カビの匂いだ。簡素な木製の本棚が幾列にも並び、空いたスペースに長机が六台並べられている。僕はいつもそこで大学の課題に取り組んでいる。疲れると適当に選んだ小説を読んだり昼寝をするのが日課になっている。
 カセットプレーヤーを机の上に置き、イヤホンを耳に押し込んだ。乾いたスポンジの感覚が不快だがすぐに馴染む。再生ボタンを押し込むと、ホワイトノイズに続いて、トランペットのメロディーが流れてくる。一歩遅れてドラムが続き、狭い館内のが一気に別世界になる。
 僕はすぐに勉強に飽きて、正確に言えば、課題を進めることの意義を見出せなくて、その日もすぐに小説を読み始めた。外国の話で、殺人鬼が夜中のゴルフ場で愛する女性を殺して泣いている。
 カセットが一回りした頃、僕は図書館を出た。外は相変わらず突き刺すような日差しと蝉の声で溢れかえり、まるで粘度を持った空気が体の周りを包むような夏の日だ。
 駐車場へ向かうと、サニーの隣にオートバイが一台停まっていた。
 大柄の車体に、ワインレッドのタンクが光っている。いかにも重厚なエンジンを腹に抱え、そこから四本のメッキマフラーが伸びている。アップライトのハンドルと二眼メーターがスポーティーで、つい手を伸ばし、跨ってみたくなった。オドメーターが二千キロを示しているので、まだ新しい。クランクケースやシリンダーフィンまで白く輝いている。
 僕はしばらくそのバイクを眺めてから、太陽に熱せられたサニーの天井に、水筒の水を流しかけた。ドアを開けて車内の熱気を逃がし、煙草を一本吸ってから、乗り込んでキーを回すと、弦を擦るような甲高い音でセルが回り、控えめなエンジンに火が入った。

 その日は一度家に帰り、仮眠をとってから店に向かった。
 日が落ちたばかりで、赤紫色の空が薄く長く続いている。空の片隅には、白い月が浮かんでいた。
 店では珍しく店主がレコードをかけていて、甘ったるいピアノの旋律が流れていた。
「何かいいことでもあったんですか」
 僕は挨拶と一緒にそう声をかける。
「今日は特別だ。気分がいい」
 キッチンへ入り、布巾を一度濡らして固く絞る。
「いいことだね」
 二階へ上がり、部屋の掃除を始める。窓を拭き、ベッドの枠とサイドテーブルを拭く。床を箒で掃き、集まったわずかなチリは窓の外に捨てる。
 毎日の簡易な清掃を終えると、煙草を一本取り出して火をつける。とっぷりと水に沈んだように暗くなった景色に煙を吐き出す。夏は昼間の音が多いから、日が暮れた後の静寂がより際立っている。今夜は虫も鳴いていない。
 僕の頭には昼間に見たオートバイが浮かんでいた。あのエンジンの音を聞いてみたい。ワインレッドのタンクも、メッキのマフラーも、日の光に反射して輝くよりもこの静かな月光に煌く方が似合うだろう。僕は想像の中でオートバイに跨る。重い鉄の塊の、まるで一つの生き物であるかのような鼓動がハンドルやシート、ステップを通して伝わってくる。フルフェイスのヘルメットをかぶり、アクセルを捻れば、きっと他の全てのことは頭の中から消え去るだろう。全身が風とGを感じて緊張する。そして目の前の一点だけを見据える。世の中のすべてのことが、消える。それが、オートバイだ。
 重い響きのベルの音がして、店の来客を知らせた。僕は掃除道具を部屋の隅に片付け、ふきんだけを持って一階に降りた。
 中年の男女がカウンターに座ってビールを注文していた。
「食べ物はどうしますか」
 店主が訊ねると、女が首をかしげる。
「何があるの」
「スパゲティか、ベーコン。あとは言ってくれれば、それっぽいものを作ります」
 キッチンに入り、僕が答えた。
 女は少し考えて、
「ベーコン頂戴」
 と言った。
 僕は冷蔵庫から抱えるほどのブロックベーコンの塊を取り出し、ステーキになるように切り分けた。フライパンにオリーブオイルをたっぷり垂らし、扇風機を回す。ベーコンには胡椒をしっかりと振りかけ、フライパンにそっと滑りこませると、香ばしい音と香りが立ち上がる。

 店主はビールを二人の客に渡し、二人は「乾杯」とグラスを合わせていた。

「カリカリになるまで焼いてくれ」
 ビールをあおった男が言った。
 僕は返事をし、自分のグラスに氷とウイスキーとコーラを入れて飲んだ。
「旨そうだな。マスター。次はあれにしてくれ」
「男って甘いものが好きねえ」
 女が笑った。
 ベーコンが焼きあがるのを見ながら、僕はこの仕事で得る金でオートバイを買うことに決めた。買うのは図書館で見たあれだ。金が足りなければ、休暇が終わってもここで働けばいい。目的無く過ごすことに飽きていた僕は、急に湧いたその物欲をすんなりと納得させることができた。ベーコンを裏返すと、きつね色の身の間で熱せられた油が泡になって弾けていた。

 男女の客は、しばらく飲んだ後に玉突きを二度してから店を出た。
 今度は若い男たちが入ってきて、玉突きに興じている。彼らにもベーコンとサラダを出した。
 しばらくして店主から休憩の許可が出たので、僕はいつものように二階へ上がった。
 時刻は深夜の一時を回っている。僕はベッドに腰かけ、読みかけの小説を開いたが、しばらくしてそのままベッドに横になった。ほんの微かに、階下の音楽が聴こえた。耳を澄ませなければメロディーを追うことはできない。僕は目を閉じてしばらくはその音に集中していた。窓は開けてあるので冷やされた空気が優しく部屋に注ぎ込まれ、頬をくすぐる。
 音楽が途切れた。レコードが終わり、交換される。僕は重くなった体と脳をゆっくりと持ち上げて起き上がり、窓際へ行って煙草をくわえた。月は今日もしっかりと光っている。雲も少ない。静まり返った山々は、宇宙を身近に感じさせる。
 ふと、小さくその音が聞こえて、僕は時計を見た。時刻は一時半だ。いつもより少し早い。音は高低を繰り返しながら徐々に大きくなり、峠を進んでくる。僕はその小さな灯りに向けて煙を吐き出す。この箱を吸い終わったら煙草はやめる。オートバイの資金のためだ。
 やがてオートバイはカーブを超えて店の前の直線に現れた。いつもならそこから一気にアクセルを開けるはずだが、今夜は抑えている。速度を一定に保って進んでいるようだ。ヘッドライトが路面を照らしながら迫って来て、店の前で減速し、停まった。一定のリズムで排気音が響いている。
 僕が見下ろしていると、ライダーの顔がこちらに向いた。フルフェイスのシールドが黒く光っていて顔は見えない。僕は体を少し乗り出して向かって右を指さした。ライダーは僕の指す方へオートバイを進ませて、停めてあるサニーの隣でエンジンを切った。サイドスタンドを立てて、ヘルメットを脱ぐと、先ほどは気づかなかった、首筋までの長い髪が揺れるのが見えた。彼女は僕の方を向いて片手を上げた。
「ありがとう」
 よく通る綺麗な声だ。僕も手を上げて答えた。
 一階へ降りると、ちょうど店の入り口を開けてベルの音と共に彼女が入ってきた。黒の細いデニムパンツにジップジャケットを羽織っていて、中に薄赤色のTシャツが見える。店主は男たちの会計中だったので僕が彼女に声をかけ、カウンター席へ促す。部屋にはまたスローなピアノのメロディーが漂っている。
「あの人たちは飲んでるの?」
 席に着いた彼女が会計中の男たちを見て言った。
「飲んでるよ」
「じゃあ私も。あまり強くないのを頂戴」
「食事は?」
「何があるの?」
「スパゲティか、ベーコン。あとは言ってくれれば、それっぽいものを」
「スパゲティ」
 彼女は即答した。それ以上は何も言わなかったので僕はその場を離れた。
 店主がグラスにソーダと砂糖を入れ、かき混ぜながらミントの葉を落としている。僕は鍋に水を張り火にかけた。彼女は店の中を見渡していたが、キッチンの僕と目が合うと小さく微笑んだ。肌が白く、目がどこか幼い。
 店主は砂糖が溶けたグラスにウイスキーを少しだけ混ぜ、彼女へ出す。
 僕はフライパンにバターを引き、キノコとサーモンを塩胡椒を振りかけながら炒めた。お湯が沸いた鍋にも塩を入れてパスタを茹でる。ゆで汁を少しずづフライパンに移し、サーモンは細かくほぐす。少し硬めに茹でた麺をフライパンへ移し、バターとゆで汁を追加してとろみがつくまで炒め、皿に移し、上からベビーリーフを散らせ、胡椒をふりかける。
 出来上がったスパゲティを彼女に出すと彼女は目を細めた。
「色合いがいいわ。それに、いい香り」
「味もいいはずだよ」
 彼女はフォークでパスタを小さく巻き取り、一口食べた。
「美味しいわ」
 バターで光る唇をぺろりと舐める。
「メニューはあなたのオリジナル?」
「そうだけど、言うほどのものじゃないよ。あるもので適当に作るだけ」
「羨ましい。私、料理は駄目だから」
 彼女はそう言って、二口、三口とパスタを口に運ぶ。
「毎晩、ここの前を走っているね」
 僕は言った。
「あの窓から見ていたの?」
「いつも、休憩終わりの合図にしていたんだ。どんな人が乗っているのかと思ってたけど」
「女だとは思わなかった?」
「まあね」
「残念かしら」
「まさか」
 僕らはそこで数分言葉を交わした。スパゲティとミントソーダを交互に口に運びながら、楽しそうに喋る彼女は十分に魅力的だったし、彼女のオートバイにも興味があった。店主の方をちらりと見たが、僕らのことなど気にする様子もなく、目を閉じてピアノの音色に耳を傾けている。
「ここのストレートは一番気持ちがいいから、いつも通り過ぎるだけ。それでも、今夜わざわざ寄ったのにはわけがあるのよ」
「いつもは、目一杯にアクセルを開けて、すっ飛んで行くからね」
 僕が言うと、彼女は子供のようにいたずらな目を僕に向けた。
「表のサニーはあなたの? それともマスターの?」
「僕」
「そうなの。ふうん」
 思わせぶりな問いかけのあと、彼女は満足げに頷いた。
「昼間、ふもとの図書館にいたでしょう?」
 そう言われ、ふと昼間見たオートバイが脳裏に浮かんだ。
「ああ、そこで見たのか」
「そう。ここにいつも同じような車が停まっているな、と思ったの。それで今日は寄ってみることにして、ずばり同じナンバーを見つけたのよ」
 僕が苦笑していると、
「白いサニー、素敵じゃない」
 と彼女が言った。
「ここまで登ってくるだけでオーバーヒート一歩手前だけどね」
「私は好きよ」
「君のオートバイは、ワインレッドのCBだ。僕のサニーの隣に停めてあった」
「そうよ」
 彼女は少し得意げに、僕を見つめる。
 食事を終えた彼女の会計をしながら、CBを見てもいいか訊ねると、「いいわよ」と快活な返事が来た。
 僕は彼女と一緒に外へ出た。空には月と少しの星が張り付いていている。彼女はジャケットを羽織り、サニーの横に並べられたCBの横まで進んだ。
 夜の暗闇の中で見るCBは、昼間のものとは全くの別物だった。タンクはわずかな光をとらえて煌き、ワインレッドは深みを増して黒くも見える。静かにたたずむその姿は、野生の獣の姿を連想させる。いつでも走り出せるよう、束の間の休息をとっている獣だ。
「免許、持っているの?」
 彼女が僕にきいた。
「ああ。いつもここを通り過ぎる君を見ながら、僕もオートバイを買おうと決めたんだ」
「じゃあ、私のナナハンに乗らせてあげてもいいわよ」
 タンクに手を置いた僕に、彼女は言った。
「その代わり、私はあなたのサニーでふもとまで下りるわ。どう」
「いいのかい?」
 心臓が血を強く送り出し、体が熱くなる。
「わたしもこのサニーに乗ってみたいのよ」
「わかった」
 僕は一旦店に戻り、店主に外出を伝えた。店主は黙って頷いた。
「はい、これ」
 彼女からキーを差し出され、僕はそれを受け取った。鍵には小さなお守りが結い付けられている。僕もサニーのキーを彼女に渡す。僕のものには何も付いていない。
「あなたが先に行って」
 そういって彼女はサニーのカギを開け、車内に乗り込んだ。シートの位置を決めてからエンジンがかけられると、比較的静かなエンジンノイズが響き、ヘッドライトが店の前の道路を照らす。僕はCBに跨がり、キーを鍵穴に差し込んだ。細かな摩擦と共にキーは根元まで入り、そのまま右に回すと緑色のニュートラルランプが点灯した。左手でクラッチを二度引き寄せてから、スタータースイッチを押す。セルの音とともに、エンジンがぶるりと震えて火が入り、すぐに四本に分かれたマフラーからの排気音が僕を包んだ。もう、サニーのエンジンノイズも僕には届かない。断続的で重い排気音だけが僕に届いている。体に伝わる振動の一つ一つが、この獣の息吹を伝えた。
 一分ほど暖気し、ヘッドライトをつけた。目の前の道が照らされる。サニーに乗る彼女を見ると、頷いている。左足でシフトペダルを踏み込んだ。ガツリと、確かな感触があり、車体が沈むような感覚を覚える。クラッチを離していくと、CBはまるで地面を滑るようにするりと前に進んだ。ハンドルを右へ倒し、店の前の道に出た。そこから百メートルほどは直線だ。ゆっくりとアクセルを開けていく。風を切りながら、CBは余りある馬力であっという間に加速する。目前の、ライトに照らされた道の先だけを見てシフトアップし、さらにアクセルを開く。鼓膜をエンジン音が揺さぶる。加速は、体を後ろに持って行かれそうなほどだ。アクセルを開け、高周波に代わっていく音に神経を使いながら、更にシフトを上げた。次のコーナーが見えてきたところでアクセルを戻す。僕を包んでいる音が再度重くなるがスピードは落ちない。シフトを一つ下げて、コーナーに突っ込んだ。体重を右にかけて車体を倒すと、同時にハンドルも右に切れる。少し遅いタイミングで減速Gを感じながら、僕はコーナーの出口を見据え、アクセルを開く。加速とともに車体が起き上がり、そのままコーナーを抜けた。ちらりと、視界の隅に町の光が確認できた。それは空の星のように、揺れている。

 ふもとの小さな川の土手脇でCBを降りた。エンジンを切り、煙草に火をつけ、一口空に向かって煙を吐き出したところで、彼女の運転するサニーがCBの横につけた。サニーのエンジンが切られると、再び静かな夜になった。
「驚いたわ。下りであんなに飛ばすなんて。怖くないの?」
「怖いよ」
 そう言うと彼女は呆れたように口を閉じた。そして、彼女もポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
 二人でしばらく黙り合い、タバコを吸った。
「私、建築を学ぶためにフランスに行くの」
 唐突に彼女が言った。
「だから、このナナハンも売らなきゃと思っていたんだけど、良ければ貸すわ」
「いいのかい」
 唐突な提案に僕はたずねた。
「サニーに乗せてくれたお礼。でも一年後にちゃんと返してね」
「保証するよ」
「明後日の午後二時、図書館に来て」
 僕は頷いて、そっと彼女に顔を寄せた。彼女の幼い瞳に、不安の色が浮かんだが、それはすぐに消え、目を閉じて僕のキスに応じた。
「じゃあ店に戻るよ」
 僕はサニーに乗り込んで彼女に別れを告げた。車内には彼女の甘い香りが残っている。

 翌日は雨で、いつものように深夜、店の二階で休んでいたが彼女は通らなかった。雨雲に隠れて、月も見えない。
 店主はその日もレコードをかけていた。何かを思い出すかのように目を閉じて、ただ流れているメロディに聴き入っている。僕は玉突きに来ている四人の男女のグループに、チキンタコスを作った。雨音と、ピアノと、玉突きの乾いた音だけが店を満たしている。

 彼女との約束の日、いつものように昼過ぎに図書室に入った。大学の課題はほとんど終わったので、僕はまた適当な小説を読んで時間をつぶした。
 机には僕の他に、学生風の女が二人いた。一人は本を読み、もう一人はノートと参考書を広げている。
 僕は劣化が進んでいるイヤホンのスポンジを耳に詰め込んで、トランペットのメロディーに耳を傾けて目を閉じた。音色は途絶えることなく、細い針金のように滑らかに流れる。空気の振動を鼓膜がとらえ、一瞬、CBに乗った時の、体中を包み込む排気音がよみがえる。

 目を覚ましたのは夕方の四時を少し回った頃だった。テーブルにいた女達はいなくなっていて、代わりに男が一人、雑誌を読んでいた。
 図書館を出ると、夏の終わりに、太陽が最後の力を振り絞っているような熱線を大地に注いでいる。息をすると体の中から焼かれるような日和だ。
 駐車場に行くと白いサニーは僕の帰りを待っていたかのような顔つきで、ポツンと佇んでいた。僕は水筒を開け、熱せられたルーフに水をかけた。焼けた塗装が冷やされ湯気が出る。水が日差しに反射してちらちらと煌く。
 煙草を一本吸ってから乗り込んだ。
 キーを差し込んで右に回すと、苦しそうな音を立ててサニーのエンジンに火が入った。

genki


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