樫の木


 この話を最初に出したのは加奈子の方だった。僕は迷うことなくそれに応じた。
 梅雨時で、雨になるだろうということはわかっていたが、その方がよかった。悲しさや寂しさが際立ち、まるで自分たちをこの世界の主人公だと錯覚するような、そんな幼さを僕らは思い出すことができた。
「お湯、なかなか沸かないね」
 加奈子が困ったように呟いた。カセットコンロに鍋を置いて火をかけたのはついさっきのことだ。
「雨、やまないね」
 僕の返事を待たずに加奈子は続ける。昔から黙っているのが苦手なのだ。
 彼女の顔は薄白く、幽霊のような、時を感じない美しさを感じる。古びたフローリングのただ広いキッチンには何本かのロウソクが灯り、湿った空気がぼんやりと部屋を満たしている。流しの台前にある無駄に大きい窓からは裏庭の樫の木が見えた。
 ぱらぱらと、この家は雨音がよく響く。
「お酒、飲む?」
 加奈子がきくので、
「十二時になったら飲めるようになるよ」
 と答えた。彼女は顔をクシャッとして笑った。

 僕らがこの家で暮らし始めたのも雨の日だった。幼い彼女の悲壮感が、同じく幼かった僕には強く印象に残っている。
 僕が十四歳になった時、加奈子の両親は経営する会社の展開に伴ってヨーロッパへ赴任した。その時に、日本で教育を受けさせたいという強い希望により加奈子が預けられたのが、旧知の仲だった僕の母だった。母はこの大きな屋敷と、おそらくそれなりの資金援助を受けて、一人で僕と加奈子を育てた。

 鍋は湯気をあげ始め、しばらくすると音を立てて沸騰した。そこに塩をたっぷり入れてからスパゲティを入れる。加奈子は僕の隣で、スーパーの袋から食材を取り出している。
「ここで食べてたことが多いよね。テーブルがあって、椅子を並べて」
 母はダイニングが広すぎるといって、キッチンにテーブルを置き、僕たちはいつもそこで食事をしていた。
「たぶん、片付けが楽だったからだと思う」
「でも、おかげでたくさん話せたよね」
 たらこの中身をボールに出しながら加奈子が言う。
 確かにキッチンは十分広い。三人で食事をするには丁度よく余裕があり、家族の親密さを演出してくれた。今は家具が無い分、僕ら二人には少し広い。
 加奈子がたらこにオリーブオイルとバターを加え、塩、胡椒を振りかける。僕はレモンを半分に切って、そこに絞る。
「これね、何回やってもあの頃の味にならないのよ」
 加奈子が言う。
「そんなことないよ」
 と僕は答える。これを作るのはとても久しぶりだ。

 三人で暮らし始めた最初の夜、加奈子は声を出さずに泣いていた。母は寄り添うように加奈子の頭を撫でていて、僕はどうしていいかわからず、母に言われたとおりにスパゲティのソースを作っていた。スパゲティが茹で上がり、みんなで食事になった時には加奈子は泣き止んでいて、僕が分量を間違えて茹で過ぎたスパゲッティを、お腹が破裂するほど食べ、そのまま一つのベッドで眠った。母を真ん中にして、三人で手をつないでいた。その夜は多分、その全員が不安だったと思う。

 スパゲティが茹で上がると、暖かいうちにソースと混ぜ合わせ、皿に分けて床に置く。温まったバターとオリーブオイルとレモンの香りが湯気と共にのぼってくる。
「いただきます」
 加奈子が一口食べる。
「美味しい」
 スーパーでもらったプラスチックのフォークで巻いて口に運ぶ。レモンの酸味とたらこの塩味が少し強いが、パスタの湯で加減は完璧だ。
「最近どうしてる?」
 食べながら僕はきいた。
「特に何も。勉強は順調。あ、最近友達が旅行に誘ってくれて」
「どこに」
「ヨーロッパ巡りだって」
「そうか」
 僕は答えた。その先の言葉を探したが、出てこない。加奈子は苦笑してスパゲティを頬張っている。
「みんなには自分のこと話してないからね。それに、行ってみようと思ってる。お父さんたちが過ごしていた場所の空気とか、吸ってみたい」
「そうだな」
「もちろん、お父さんとお母さんには内緒だけどね」
 加奈子はいたずらっぽく言い、僕は笑い返したが、自分がどういう顔をしているのかわからなかった。
「もう、ここにも来れないんだね」
 加奈子が話を変えた。そうだね、と僕は答える。言葉に出さなくても、ずっと思っていたことだ。
「でも、もう必要無いからいいのよね。音楽かけて」
 僕は携帯電話で音楽を流した。僕らが好きだった映画の音楽だ。僕らはこの家で沢山の映画を見た。

 加奈子の両親は年に何度か帰国し、加奈子に会いに来た。家で食事をし、そのあと十日ほど、加奈子を連れて出かけていく。その時の加奈子は心の底から嬉しそうに笑っていた。
 三人の生活の中で、母と僕が二人きりになるのはその時くらいだった。高校に進学した時、卒業する時には家を出るよう、母は言った。
 今、僕と加奈子はそれぞれ大学へ進学し、この屋敷を出て一人暮らしをしている。これまでも夏と正月にはこの屋敷に戻って母と三人で過ごしていた。

 加奈子の両親がなかなか帰国しなくなったのはちょうど一年ほど前で、そして二か月ほど前に、経営していた会社が破綻したと連絡があった。この屋敷もそのうち取り壊されると伝えたのは、電話口の加奈子だった。

 雨音に消されるくらいの小さな音楽が流れるキッチンで、僕らはスパゲティを食べている。加奈子の横顔がろうそくの明かりに浮かび、はっとするほど綺麗いだと思う。
「わたし、お父さんとお母さんにありがとうって言わなきゃ。わたしが大人になるまで頑張ってくれたんだから」
 加奈子は立ち上がってシンクの袋から缶ビールを2本取り出してきた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 とビールを受け取る。時刻はもう十二時を回っていた。
「わたしにも」
 加奈子は笑って、自分の缶を開けた。
「おめでとう」
 僕は言った。
 ビールはもう、ぬるくなっている。

genki


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