髪切る人(essai)

 行こう行こうと思っていた床屋に行けないまま、早2週間。自分でも呆れるほどのずぼらである。ましてや、朝の電話で当日の17時に予約を入れたことをすっかり忘れ、夕方のうたたねを楽しんでいるという始末。つくづく、地図を眺めて冒険に出ない海賊である。今に始まったことではない。
 ともあれ、ぎりぎりで床屋には間に合った。家から自転車で5分の場所にある。それがその店の良いところだ。骨に響くような冷たさはなくなっていたが、代わりに風が強く、肌の表面をさっと撫でて冷やす、そんな日だった。
 その店へ行くのは二度目だった。店には20代後半ほどの男が一人。濃いベージュのニット帽の後ろからは、肩までかかる長い髪の毛。小さな顔にはもみあげとそこから続くあごひげ。大きな目がいつも潤んでいるので、身なりとは対照的に幼く見える。「こちらにどうぞ」と案内を受けた。
 美容師は間を持たせるために客と話をするが、話の入りは仕事の話だったりすることが多い。
「仕事は何をしているんですか?」
 その日もこの言葉から始まった。僕はいつも思う。この話は最初に来店した時にもあったはずだ。その情報は保管していないのだろうか。この一言を「最近の業界の仕事はどうですか?」という問いに変えるだけでいい。その時の客は自分のことをしっかり覚えてくれていると実感し、特別扱いを感じるのではないだろうか。その店は小さな店で、美容師は男一人だ。そんな店こそ顧客満足を高めることは大事で、そのひと手間が必要なのではないか。
 そんなことを頭では考えていたが、本心は違った。毎度聞かれるこの問いに答えることが億劫だったのだ。「仕事は何か」「今日は休みか」「どこに住んでいるか」などを毎回説明するのは面倒だ。その小さな苛立ちを、僕は店のサービスのせいにして正当化していたのだ。しかし、僕がもしも店をやるとしたらそういったサービスは行うだろう。
 とにかく、僕は髪を切ってもらいながら15分ほどそういった取りとめない会話を続けた。相手にとっては自分の知らない話だから聞いていてもよいのかもしれないが、自分のことを延々と話すのは退屈なものだ。
 そこで僕は相手の話をきくことにした。「このお店はお兄さんのお店ですか」僕がこうきくと彼は少し照れたように笑って「はい」とうなずいた。僕は敬意の念を込めて「すごいですね」と言った。
「自分の好きなように出来るので楽ですけど、店のことを考えると気が気じゃあないです」
 僕は自分の興味のあることを彼にたずねる。彼は僕のもみあげを整えながらそれに答える。僕のことを質問していた時に比べて随分饒舌な印象だ。

「休みは取れても二連休まで。それ以上は、取ろうと思えば取れますけど気がもたないですね。どうしても店が気になっちゃうんで。安定はないですよ」

「チラシは、昔は百枚配って一人お客さんが来たらしいけど、今は四百枚配らないと一人も来ないです。フリーペーパーに広告を出すのも結構な費用が掛かるんで、今はほとんどウェブです」

「前は仙台の中心部の美容院で働いていました。忙しくて、一時間に五人さばいたこともあります。あれは限界でしたね。あとは町中だったので変わった女の子が多くて、右半分をピンク、左を紫に染めたいとか、やめたほうがいいって言いましたけど結局染めました」

「ここは町と離れているので変わった人も来ないし、自分のペースに合わせられるので楽です。プレッシャーは半端ないですけどね」

 彼の話は僕にはとても興味深かった。彼は僕の話も聞きたがったので、僕も多少話した。彼からの質問は、誰にでも当てはまる決まりきったものから、多少本質的なものに変わった。労働や、生き方についてだ。
 カットも終盤に差し掛かったころに彼にきいた。
「昔から独立したかったのですか」
 彼は少しだけ考えたように間をおいて、
「いいえ、俺の場合は、店は持たずのらりくらりやっていくつもりでした」
 彼は最後まで独立した理由を話さなかったが、今の挑戦に満足して、不安ながらも楽しんでいるようだった。

 鏡に映る、随分さっぱりした自分の姿を見て、彼の腕前が、少なくとも僕にとっては大したことがないということが分かった。彼はカードも使えますよと言って見慣れない端末を見せた。今ではタブレットでカード決済ができるのだと、便利ですよねえ、と彼は笑った。
 外に出ると、日も落ちて一層冷たくなった風が、体を撫でては道を先へと進んでいく。

僕はまたこの店に来るだろう。
それは、この店が家から近いからだ。

genki


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