花と列車

 駅からの景色は、どこも古臭くぼやけている。線路を挟んだ向かいは、五メートルほど段になって下っているので、その先に広がる、ポケットに入ってしまいそうな小さな町を見渡すことができた。花とおばあさんは今ホームに着いたばかりだ。
「あの建物はね」
 とおばあさんが指さす。
「昔はいろいろな会社さんの事務所が入っていたのよ」
 タクシーが一台だけ停まっているロータリーの先に、二階建ての建物があった。一目見て、もう長く使われていないとわかる荒れようだった。壁はいかにも年季の入った薄茶色で、ひびがいくつも入っている。建物の二階に沿って外廊下が渡り、それぞれの部屋にドアと窓があった。窓から見える部屋の中は薄暗く、時間が止まっているかのような静かな空間が広がっている。外廊下から地上へつながる階段を、深い緑色のつたがびっしりと覆っている。まるで、人工物である建物を、自然がじわじわと食べているようだ。花はそう思った。
「学校でみんなに話しても信じてもらえないくらいすごい風景」
 自分で思っているよりも乾いた声が出た。おばあさんが「そうね」とつぶやく。
「おばあさんが花ちゃんくらいの子供だった頃から、こんな田舎は日本中どこを探してもここだけだって笑われていたわ」
 建物を越えると小さな川が流れていた。その川の対岸に、一段と古く思える木造の大きな建物が建っている。
「あれは?」
 花は今にも朽ちて崩れ落ちてしまいそうなその建物を眺めてきいた。
「あれは」おばあさんは懐かしそうにその建物を見た。建物は三階建てで横に長く、隣には同じく木造の小さな建物が別に建っている。壁板は朽ち始めていて、穴が空く寸前という様子だ。たくさんの窓は全て白く濁っていて、半分くらいは割れている。
「あれは、おばあさんが通っていた学校」
  いつもは静かなおばあさんの、心なしか楽しそうなその言葉に、花はおばあさんを見上げた。おばあさんは昔を懐かしむように目を細めている。何を話しかければよいのか、花にはまだ難しいことだった。

「ちゃんと食べなさい」
 花の父親は言うべきことを言う人だった。仕事で家を空けることがほとんどなので、こうした親子三人での夕食などは貴重なのだが、それでも必要以上に花を甘やかすことはしない。花は尊敬と、恐れも混じった感情で父親を仰ぎ見て、そのあとに助けを求めるような目で母親を見た。
「食べなさい」
 母親の口調は優しかったが、助けてくれるつもりはないようだ。花は皿のすみにやったごぼうを箸でつついた。
 母親は上機嫌に見えた。母親は何事も要領よくテキパキとこなすしっかり者だ。そして父親が家にいると、いつも少しだけ楽しそうに見える。お酒も飲むし、笑顔が少し幼い。心のバリアを解いているんだ。花はそう思いながら、甘辛いごぼうをそっと口に運んだ。
「花、実は、お父さんも昔は根っこは嫌いだった。よくこっそり隠して流しに運んだものだけど、花はしっかり食べて、お父さんよりも偉いよ」
 そう言われ、花は少し誇らしい気持ちになる。母親が、「根っこなんて呼び方」と顔をしかめた。それでもどこか嬉しそうなのだ。父親は偉大だ。
「ところで、花、今度の日曜日のことは、お母さんから聞いているね」
 食事が終わると、父親が話し始めた。花は頷く。
「お父さんはまた仕事で海外だから、どうしても行けない。おばあさんに話したら、花と一緒に過ごしたいと言っている。もし不安ならお母さんと一緒でもいいんだけど、どうする?」
 父親はそう言い、申し訳なさそうに眉毛を寄せる。
「私はいいけど」花はそう言って、母親の顔を伺う。
「お母さんはおばあさんの引越しの手続きがたくさんあって大変なんだ」
 父親が言う。
「だから、父さんは花に行ってもらいたい」
 今日、両親がこの話をしようとしていたことはわかっていた。これは自分が行かなくてはいけないんだ、と花は思った。不安にも思ったが、二人の期待を感じ取り、断る訳にはいかなかった。
 おばあさんの故郷。数回訪れたことはあったが、詳しいことは何も知らない。車で何時間もかかる場所だ。車中ではいつも疲れて眠ってしまっていた。おばあさんの家が近くなると母親が起こしてくれるのだ。その時に窓から見える、ビルの上の巨大なトマトの顔のマスコット。すぐに見渡す限り山と田んぼが広がる。そして、大きなカーブを描く道の先に見える、古びれた大きな家。玄関先で手を振るおばあさん。いつも幸せそうに笑っている。アルバムをめくるのと同じように、切り取られた風景が頭の中でスライドのように流れていく。
「わかった。やるよ、まかせて」
 すっかり味が抜け、繊維の塊になったごぼうを噛み締めると、口の中できゅっと小さな音が鳴った。

「ここにはもう帰ってこれないのかねえ」
 おばあさんが遠くの学校を眺めながら言った。その細めた目からは、おばあさんの感情は読み取れない。
「おばあちゃんが元気でいてくれたら、いつでも一緒に来てあげるよ」
 花は励ますように声をかける。
「もうここへ来る方法もわかったしね」
「いいのよ花ちゃん。わたしは目を閉じるだけで、ここの事を思い出すことができるし、おじいさんのこともすぐに隣に感じることができるの。それに、花ちゃんがそばにいてくれるだけでおばあちゃんはとっても幸せなの。本当よ」
  花はその言葉に、諦めや後悔にも似た、おばあさんの静かな幸せを感じた。どうしようもできないことがこの世界にはあるのだ。そう思うと胸の奥が震えた。
「私は嫌だなあ、自分のふるさとを離れるなんて」
 思わず口をついて出た。はっとおばあさんを見ると、変わらず笑っている。花は安易な自分の言葉を少し後悔する。
「おばあさんのわがままで、みんなを困らせることはできないでしょう」
「それはそうだけど」
 花はうつむいて黙った。おばあさんがここに住み続けるのは難しいことくらいわかっているからだ。「たのんだぞ」と花の頭に手を置いた父親の顔が浮かぶ。
「気にしないことよ」 全部わかっているように、おばあさんが花の肩にそっと手を置いた。
 花は自分の足元をじっと見た。差し込んでくる日差しに焼かれて、コンクリートの細かいザラザラが所々輝いている。その輝きの一つ一つに、宇宙のような広大な世界が広がっているような気がする。もしそうだとしたら、私たちはなんてスケールの大きな存在なのだろう。
  視線をずらして線路を見、その線路をたどるように先に目をやると、遠く先に、日の光を反射してこちらに向かってくる列車が見えた。
「来たわね」
 おばあさんが優しく二回、花の肩を叩く。花はその手を握ろうかと思ったが、やめておいた。おばあさんの世界に、自分はまだ入れないような気がしたからだ。
 旧時代型リニアは、みるみるうちに駅までやってきて、かすかな高周波音と共にホームに滑り込んできた。乗客は誰もいない、2両だけの列車だ。二人が乗り込むとアナウンスと共にドアが閉まった。花たちは並んで座って、窓から外を見る。
「懐かしいわねえ」
  おばあさんが遠くに見える学校に目をやり、列車の出発までのちょっとした間眺めたあと、花に向き直った。
「花ちゃん、バレンタインデイって知ってる?」
 おばあさんの唐突な問いかけに、花は首を横に振った。
「おばあさんが花ちゃんと同じ年の頃はね、バレンタインという日に、女の子が好きな男の子にチョコレートをあげたのよ」
 昔を思い出し、噛み締めるようにおばあさんが言う。
「知らない。もっと教えて」
 この話は決して忘れないようにしよう。花はおばあさんの顔を見た。
 窓の外の景色は時速600kmで流れている。

genki

 


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