桜色アンブレラ(essai)

 あれは中央線だっただろうか。どこへ向かっている途中だっただろうか。
 今となっては何も覚えていない。思い出せるのは、雨上がりの午後の日差しが綺麗だったことと、列車は川を渡っていたこと。乗客がまばらで、立っている人は誰もいなかったことだけだ。

 向かいには、当時の僕より少し上くらいの若い女性が座っていた。僕は彼女の肩越しに見える川のきらめきを眺めていた。彼女はうつむいていたのか、僕のように窓を見ていたのか、あるいは本を読んでいたのか、わからない。どんな女性だったのか、今ではぼんやりとした昔に観た映画を思い出すようにおぼろげだ。

 一つ、確かに覚えていることがある。彼女の足元に立てかけられた傘だ。それは薄い桜色をした、とてもほっそりとした傘だった。骨が多く、折り目がはっきりとしているその細い傘を、彼女は自分の膝に立てかけていた。膨らむように多少広がった生地は、先ほどの雨で少し濡れているようだった。
 白に極めて近いその桜色を見ていると、ところどころ雨水の反射とは違う輝きを放つ部分があった。それは小さく、しかし離れてみても確かにわかる最適な大きさの桜の花びらだった。薄い桜色の中に、ほんの少しだけ濃く縁取った花びらが無数に散っており、ラメによ角度によって輝いて見えたのだ。

 たしか、彼女が先に降りたのだ。桜の傘を目で追ったような覚えがある。なんて素敵な傘なのだろうと思った。その傘はその時期しか使えないのだ。

 彼女がほかの季節にどんな傘を使っているのだろうか。夏は向日葵のような鮮やかな黄色だろうか、それとも突き抜けるような空の青だろうか。秋は燃えるような紅葉色。冬は触るととけてしまいそうな雪の白。

 数年前、ある春の雨上がりのことだった。

genki


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