atsumiki

 全てのウィンドウを下げると、気持ちの良い風が車内に流れ込んでくる。
 運転席と助手席から流れ込んでくるそれは、後部座席の窓への一連の流れとなって僕らの髪をかき乱した。横を見ると、彼女は笑いながら前髪をかきあげて、そのまま押さえている。夜の暗さに溶け込むような黒い彼女の髪が、浮かび上がるように白く光っている。表情を窺うと、困っているが、本気で嫌がっているようではない。
 昼間の猛暑を思うと、夜に浴びる風はとても贅沢なものだ。全身が脱力するような心地よさがある。
 時速五十キロで走る国道には煌々と街頭が龍のように続いているが、車はまばらだ。
「月がきれいね」
 彼女の小さな声が聞こえる。本当は小さな声ではないのだろうが、風音の所為でそう聞こえるのだ。
 見上げると、ちょうどバックミラーの脇に月が浮かんでいた。先の尖った、長靴のような白い月だ。
 少し速度を落とし、月を見て、彼女の横顔を見る。彼女は次のように続けた。
「何か、月にまつわるお話を知ってる?」
「君はどう」
 僕は彼女に聞き返す。
「私は、ううん、かぐや姫くらいしか知らないわ」
「いい話だ」
 赤信号で車を停めると、脇の草むらでよる虫が鳴き始めた。
 静止した車内は徐々に熱を取り戻し、背中とシートの接触面などはぼうっと暖かくなってくる。
「僕は知っているよ」
 言うと、彼女は物欲しそうな子供のように「おしえて」と言った。
「そうだな」
 ギアをローに入れて、ゆっくりとクラッチを繋ぐと、車は滑るようにそろりと進み始める。風がまた、車内を流れ始める。
 話を始めるため、ウインドウを閉めた。密室となった車内は、先ほどまでとは打って変わって静かになり、かすかなロードノイズと低いエンジン音だけが響く。
「ある夜、男が電話をかけるんだ。ちょうど今日のように風が気持ちの良い夜。電話に出たのは女。二人はいい仲だけど、互いに自分の人生を優先して、満喫している。忙しい二人だけど、週末はそうして話し合ったり、食事をしたりする。そして男は電話口で女を誘うんだ。今夜はどうだい? もう遅いけど、大きな仕事が終わったんだ。女は思わせぶりに、少し黙ったあと、いいわと答える。でも待っているのは嫌。今日は自分も運転したい気分。そう女が言うと男が提案する。それじゃあ、今からお互い家を出て、国道を走り、ちょうど真ん中にあるバーで待ち合わせをしよう。女は了解する。その店にはまだ行ったことはなかったけれど、何度か横を通ったことがある。小さな店なのにどうしてか目を引くんだ。夜になると黄色いランプに看板が怪しく照らされている店。そしてその横にはモーテルがあるんだ。けして高級ではないけれど、真っ白な二階建ての建物。そうして、国道を走る車を誘うんだ。一杯やっていきなよ。酔いが醒めるまで店にいてもいいし、ベッドで横になってもいい。さあ、ウインカーを出して、車を入れるんだ。そうやって何度か誘われたことが二人にはそれぞれあった。だからお互い店のことはすぐに頭に浮かんだのさ。男は一度電話を終えてシャワーを浴びる。そのまま泊まることになるからね、鳥肌が浮くほど冷たい水を頭からかぶり、眠気を飛ばす。身なりを整えてからもう一度電話をすると、女も家を出るところだった。そこで男は窓の外に浮かぶ見事な三日月を見つける。女に聞くと、女の部屋からも見えているようだ。男は口を開く。この月の方角だと、君は月を追いかけて車を走らせることになるね。僕は逆に月に追われながら店に向かうよ。女はその言葉を聞いて、そういうの、素敵ね。と答える。二人は電話を切って、男は黒いオープンカー、女は真っ赤なクーペで家を出る。女は月を見上げ、男はバックミラーを上空に向け、そこに浮かぶ月を眺めながら、それぞれが、それぞれの考えで、まっすぐな国道をバーに向けて運転する。そんな話さ」
 僕が話し終えると、彼女は何事か考えるように黙って、「そのあとは?」とたずねた。
「覚えていないな、そこで物語の幕引きだったのか、バーで落ち合うところまで書かれていたのか」
「おかしな話、窓を開けて」
 そう言って彼女は、シートに深くもたれこんだ。
 僕はウインドウを全開にする。
 待っていたかのように夜風が彼女の髪を踊らせ、僕の耳を擽りはじめる。

genki


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