7月の青

 
 借りてきたつまらない映画を観終わり、ぼんやりしていると、ふと視線の端の小さな花瓶が気にかかった。黄色と赤のグラデーションの燃えるような花瓶だ。テレビ横の背の高いスピーカーの上に置いてあり、白、黄、オレンジのガーベラがみずみずしく生けられている。
 彼女はしばらく眺め、考えた。あの花瓶はいつ買ったものだったか。花は妹が持ってきたものだ。その時に、どこからかあの花瓶を探してきて生けたのだ。
 それから彼女は髪を束ね、薄く化粧をしてマンションを出た。
 外は快晴で、濃く青い空が広がっていた。
 少し歩くと途端に滲み出す額の汗を、時々ハンカチで拭った。車が数台道を行き交っていたが、出歩いている人は少ない。朝、テレビで聞いた通りの猛暑日だった。
 駅に着いてすぐに到着した電車に乗った。電車に揺られていると、窓から自分のマンションが見えた。その町では高層で目立つマンションだ。細かな窓が太陽からの反射で白く光っている。ゆっくりと流れていくそれを見ていると、向かいの席に座っている小さな男の子がこちらを見ているのに気付いた。まだ地面に着かない足を、退屈そうに揺らしている。子供はしばらく彼女を見た後、窓の外へ視線を逸らした。電車は川を渡り、水面も白く輝いている。
 三駅目で彼女は降りた。そこには駅に直結して大きなショッピングセンターが併設されている。休日の乗客の大半がそこで降りるようだ。
 駅からショッピングセンターへ続く通路を、多くの人が行き交っていた。家族連れやカップルが多く、彼女のように一人で歩いているものは少ない。通路の左右はガラス張りになっていて、彼女の真っ白なワンピースと、同じく真っ白な、つばの大きな帽子が青空を背景に写っている。
(未練がましいかしら)
 彼女は帽子のつばをそっと指で撫でた。使い続けているのに理由はない。ただ単に気に入っているのだ。妹はそんなもの捨てるべきだと怒る。そして、女はそれくらい勝手じゃないといけないよ、と笑う。そんな妹を思い出し、少しおかしくなって、誰にも気付かれない、小さな笑みを浮かべた。そして、ついでなので結婚を控える妹にも何かを買おうと決め、彼女は通路を進んだ。
 店内は冷房が効いていた。雑貨屋を数店回り、薄水色で、せせらぎのように涼しげな模様が刻まれている花瓶を買った。妹にも、同じものを買った。
 彼女はショッピングモールの中にあるカフェに入り、アイスコーヒーを注文して席に着いた。休日のカフェは混んでいたが、ちょうどモールの通路に面した窓側の席があいた。
 しばらくしてコーヒーが運ばれてきた。ひとくちそれを飲むと、彼女は考え込むように黙って窓の外を行き交う人を眺めた。
 何をしているのだろうか。彼女はぼんやりと考えていた。一人部屋で映画を観て、思いついたように買い物に出かけてコーヒーを飲んでいる。なんだかとても虚しいことのように思えた。
「姉さんは優しすぎるのよ。傷つくのは自分なんだから」
 以前妹に言われたことが頭の中で反芻される。
 妹は芯が通っていて、誰にでも思ったことをいう気持ちのいい性格だった。のんびりとしている自分とは対照的だ。 きっと妹の言うことは正しいのだろう。しかし、果たして自分がどうするべきなのかはわからなかった。グラスはすぐに水滴だらけになり、中の氷が溶けて、ぐるぐると薄まってゆく。
 しばらくぼんやりとしてから、店を出て駅に向かった。通路でガラスに映る帽子がとても惨めに見えた。半透明の自分の姿の先に目をやると、家の方角に、重たく濁った灰色の雨雲が見えた。
 駅のホームに入って電車を待っていると、先に反対側の電車が入ってきた。電車からは多くの人がホームに降りる。彼女は線路を挟んだ先の人混みを眺めていたが、その中に彼がいた。彼女はおもわず帽子を脱いで後ろ手に隠した。目をそらすことができずに見ていると、彼も一度彼女の方を見たように見えたが、そのままホームを後にした。こちらに気付いていたのかどうかはわからない。
 人がいなくなったホームを見てながら、やっぱり惨めだ、と彼女は思った。
 ホームのゴミ箱に、帽子を押し込むと、軽い、乾いた音がした。
 彼女は電車に乗り、電車は彼女を街から運んだ。窓から見える風景はどれも見慣れたものだったが、家を出たときの青空はなく、今にも雨が降り出しそうな様子だった。彼女は何かを思うようにそれをじっと見ている。
 降車駅から彼女のマンションまでは、ほんの十分ほどの距離だったが、まるで彼女が駅を出るのを待っていたように雨が降り始めた。雨粒はあっという間に大粒になり、彼女の肩を叩いた。彼女の髪は夏の夕立に濡れ、それは頬を伝って顎へと移り、全身を濡らした。雨はまるでこの世の汚れを洗い落とし、一から全てをやり直そうとするような勢いで街に降っている。
 彼女は諦めたような表情だったが、少しだけ微笑むと小走りに道を進み始めた。雨音に紛れて、彼女が手に提げた紙袋の中から、花瓶同士が当たる涼しげな音がかすかに聞こえる。

genki


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