雪の街


 そのバーは地下にある。
 季節は冬。しんと静まりかえった暗闇に雪が舞っている。
 めったに人の立ち寄ることのない森に囲まれた小さな町。その外れの路地の隙間に、まるで隠れるように地下へ続く細長い階段がある。誰もが見過ごしてしまうその階段を、一人の大柄な男が下っていた。分厚い革のコートは雪で重く湿っている。かじかんだ手を口に当て、息を吐きかけながらレンガ造りの急な階段をゆっくりと進んでいる。歩くたびにブーツが軋むように鳴いた。
 階段を下りきると大きな黒い鉄の扉があった。雑に溶接された取っ手には厚い革が巻かれている。男はそれを掴み、ドアを引き開けた。中から暖かい空気が漏れ出てきて男の体を包みこんだ。まるでお湯に浸ったかのような心地よさに、男はため息をついて店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中の店主が声をかけた。店は狭いが奥行きがあり、十席ほどの席がある。ランプに灯った暖かい橙色が、カウンター席をぼんやりと照らしている。
「ウイスキーを」
 男が言うと店主は黙ってうなずく。
 この店に寄った回数は多すぎて覚えていない。初めて来店したのはもう何年も前のことだった。
 カウンターの一番奥の席に、男よりも一回り若い男が座っていた。三十分ほど前から店におり、グラスに注がれた黄金色の酒を少しずつ飲んでいる。
「待たせてすまないな」
 大柄の男がしゃがれた声を出した。コートを脱ぎ、椅子に掛けて若い男の横に座る。
「僕も今来たところですよ」
 若い男が少し頭を下げて言葉を返した。
「雪が止まない。面倒なことだ。三日は降り続けるだろう」
「困ったものですね」
「ここ数年は暖かかったが、今年は駄目だ。寒い年になる」
 店主がグラスを運んできて、大男の前に置いた。大男がグラスを手に取り、隣の若い男に向かって掲げると、若い男も答えるようにグラスを持ち上げた。ウイスキーを口に含み、香ばしい風味を楽しんでから喉を通すと、かっと胃が熱くなった。
「もう年なんですから、無理しない方がいいですよ」
「若造が、いっぱしの口をきくな」
 大男の静かな言葉に、若い男は苦笑した。
「みんな元気ですか?」
「熱心に働いてくれる。今夜はさすがに疲れ切っているが、お前に会えるとなると喜ぶだろうよ」
「懐かしいなあ」
 二人は酒を飲みながら、言葉少なく会話を続けた。
 店内には、二人のグラスの中の氷がころがる艶やかな響きだけが鳴るだけで、他に音はない。
「お前は、今まで嫌だと思ったことはないのか?」
 他愛もない雑談しか話さなかった大男が、少し声を落として言った。
「一度もありません」
 若い男が答える。
「私の頃は、時代も良かったですから」
「そうだな、うん」
 大男は何かを思うように目を細めた。嬉しそうで、しかし瞳の奥は哀しそうにも見える。グラスをくるくると傾け、揺らめく波を見つめている。
「長かったなあ」
 大男が噛みしめるようして出したその言葉は、店内の暖かい空気に溶かされて、グラスと一緒にゆっくりと回った。
「お疲れさまでした」
 優しい声で若い男が言う。
「本当に素晴らしい仕事でした。お供することができて、これほど嬉しかったことはありません」
 見ると若い男の目にはうっすらと涙が溜まっているようであった。まつ毛の長い綺麗な目をしている。最初にあったとこもそんなことを思った。大男はふとそんなことを思い出していた。
「ありがとう。わしもだよ。しかし、これで最後と思うと、安心するような、寂しいような気持で、何とも言葉にできんな」
「思えば、世界中を飛び回っているというのに、私たちの世界は小さなものですよね。これからはゆっくりと、自分の為に時間を使ってください」
「うん。まあそれはいいが」
 何かを探るような間を少し空けて、慎重に言葉を選ぶように大男は言った。
「お前は、本当に、わしの後を継いでくれるのか?」
 若い男は、グラスを置いて体を大男の方に向け、
「もちろんです」
 と答えた。
「協会から要請があったときは驚きました。まさか牽引役の私にそんな要請があるなんて思ってもいませんでしたから」
「要請は当然のことだと思う。お前の貢献は大きかった」
「私にその大役が務まるのか、もちろん不安はありますが、あなたが見せてくれた全てが今の私の血肉となっています。大丈夫ですよ。やってみせます」
「そうか、やってくれるか」
 大男はグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。
「お前の気持ちが聞けて良かった。望まぬ物に務まるような仕事ではない。良かった」
 安心したように大男が笑みを浮かべた。子供のような顔だ。
 若い男のグラスも丁度空いた。大男は立ち上がる。
「さあ、奴らをこれ以上待たせると悪い。引き継ぎもあることだし、そろそろ行こう」
「兄弟たちはどこに?」
「森の小屋で休ませているが、時間になったら来るように言ってある」
 大男と若い男は立ち上がってコートを羽織った。わずかな時間だったが、コートはすっかり乾いており、大男の体を暖かく包んだ。
「店主、今何時だ?」
 大男に言われ、店主は首から下がる懐中時計を見た。
「ちょうど零時になりました」
「そうか、ありがとう。酒もうまかった」
 大男はそう言って店の入り口に向かい、扉を手で押した。空いた隙間から冷えた風が店に入ってくる。先ほどまであれほど寒く、苦しく感じた風が、今では十分に温まった体をくすぐるようで心地いい。
「旦那」
 店主が、そっと後ろから声をかけた。
「メリークリスマス」
 大男は振り返り、にっこり笑い、
「また来るよ。今度は落ち着いて話をしよう」
 と言って階段を進んだ。後ろから若い男が続く。
 吹き込む風は階段を上がるにつれてどんどん強くなり、鼻の頭はあっという間に冷たくなった。ピリピリとした痛みが襲ってくる。しかしその感覚は全く不快ではなく、反対に胸が熱くなってくる。一歩一歩、しっかりと階段を登り切った。
 町は静まり返り、雪だけが絶え間なく降っている。若い男を振り返ると、もう頭に雪が積もり始めている。彼もまた、鼻が赤くなっていた。この時期になると、心配になるほど大げさに赤くなる鼻だった。大男が笑うと、若い男も笑った。
 遠くから、かすかに鈴の音が聴こえ、見上げると雲の切れ間に小さくソリの影が見えた。若い男が首をぶるぶると振り、頭上の雪を払った。

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